追憶の"Team タニモト"


昔のバイク屋のおいちゃんは、恐い存在だった。

よく叱られて、よく怒られた。

 

いま振り返ると、それが愛情だったとわかる。

 

免許を取ったばかりの若者がバイクで無茶をしないように・・・、怪我をしないように・・・、そして大切な命を落とさないように・・・。

 

年長者として、同じバイク乗りとして、近くで見守ってくれてたんだと思う。

 

昭和の時代はというと、まずは16歳で原付免許を取得する。

50㏄の原付スクーターから公道デビューし、現実の世界で交通ルールを学んでいく。

公道の走行に慣れてきたら、ギア付きの原付にステップアップする。

そこでバイクの特性や運動性能を身に着けていく。

右手は、アクセルワークとフロントブレーキの操作。

左手は、クラッチの操作。

右足は、リアブレーキの操作。

左足は、ギアチェンジの操作。

左右の手足をシンクロさせることによって、車体をスムーズにコントロールする。

シートの上では体を前後左右に動かし、積極的に荷重を操っていく。

車体のコントロールに慣れてきたら、小型二輪または普通二輪の免許を取得して排気量を上げていく。世の中がそんな流れだった。

 

・小型二輪免許:排気量~125㏄まで

・中型二輪免許:排気量~400㏄まで

 

18歳になり中型免許を取得した。

SUZUKIの2ストロークエンジンを搭載した250㏄のバイクに乗った。その名はRGV250Γ

いわゆるレーサーレプリカというもの。

当時はレプリカブーム真っ盛りで「バリバリマシン」という雑誌が流行っていた。

 

・バリバリマシン:平和出版発行

二輪車の走り屋を対象に特化したオートバイ雑誌。

読者が自慢の走りの写真を送り、掲載されるとバンク角や走りの迫力度に応じて赤ゼッケンや黄ゼッケンなどの評価が付くという、コンプライアンス時代のいまでは考えられないような雑誌だった。

少し前に本屋さんで復活版を見かけてしまい、思わず笑ってしまった。

レプリカマシンに乗ると、行ってしまうのは、やはり峠。

皮ツナギを着てヒザを擦り、ステップもガリガリ擦りながら、日が暮れるまで走った。

当時のレギュラーガソリンの価格はリッター100円。

毎日1000円分(10リットル)のガソリンを入れて、峠を攻めた。

片道2.5kmくらいの区間を上り/下りで30往復して、1日150km走るのが日課だった。あっという間にタイヤもすり減る。

そして近所にあったバイク屋さん(HONDA)に行った。SUZUKIのバイクだったが・・・

 

サイドがドロドロに溶けたタイヤを見るなり、おいちゃんは鋭い眼つきで

"どこで走りよる?"と質問が飛んできた。

"峠"と答えると、

"バッカもーん!公道はおんしのもんじゃなか!" 

初対面のおいちゃんに大激怒&大説教を喰らった。

"おんしのような奴はサーキットへ行け!"

 

タイヤの使い方を見て、走り方が分かったのだろう。

 

タイヤ交換がきっかけとなり、おいちゃんの店に顔を出すようになった。

大学の授業が終わると、バイトの無い日はバイク屋に寄ってから家に戻るというのがルーティンワークになっていった。いわゆる常連というやつだ。

当時は独り暮らしをしていたので、ソファでおばちゃんの淹れた薄っすいアメリカンコーヒーをご馳走になりながら、お客さん達と他愛もない話しをする、そんな空間が妙に居心地良く感じられた。

 

おいちゃん主催の月いちツーリングにも参加するようになり、年上のお客さん(大人達)に混じって走りに行くようにもなった。

先頭はおいちゃんのBMW?

HONDAのお店なのにバイクはBMWだった。当時は不思議だなぁと思っていたが、心底バイクという乗り物を愛していたんだなぁと思う。

おいちゃんから2番手に付けろと言われ、ライン取りからブレーキング、スピードの乗せ方、走りの組み立て方やリズム感、公道での走り方、集団での走り方、背中越しに色々な走り方を教えてくれた。大人達との付き合い方も教えてくれた。

 

店内ではエンジンオイルやブレーキパッドの交換、プラグ交換といった基本的なことから始まり、バイクの整備や工具の使い方、作業のコツや勘どころ、マシンメンテナンスのことも色々と教えてくれた。

 

その後、"Team タニモト"としてサーキットデビューすることになった。

車両はHONDAのNSR50、サーキットはHONDAのお膝元のHSR九州、スプリントレースと4時間耐久レースに出場することになった。

 

耐久レースはお客さんが所有するNSR50を使用してペアを組んで出場した。

おいちゃんが仕上げたNSR50はとんでもなく速かった。

車検はもちろんパスするのだが、パワーを絞り出すために各年式の純正パーツを色々と組み合わせ、おいちゃんスペシャル仕様の仕上げになっていた。

 

4時間耐久レースでは猛者たちを抑えこみ、初出場でいきなりの4位入賞。

当時のレースブームは凄まじく、出場台数は相当数だった中での入賞は、おいちゃんを喜ばせた。

 

HSR九州では、SP250クラスの練習走行に自分のバイクも持ち込んで走った。

二輪車ジムカーナの開催というのも知り、レプリカバイクながら参加した。

 

とにかく走りまくった。

 

2ストエンジンに2年乗った後、YAMAHAの4ストロークエンジンの400㏄にステップアップした。

その名もFZR400RR-SP 峠の下りでは、2ストと違い、4ストのエンジンブレーキにえらく感動した。

2ストよりも速く走れるのが嬉しかった。

サーキットも楽しかったが、峠も楽しかったので、ついつい通ってしまった。

 

そして21歳で限定解除をした。当時は自動車学校で大型二輪免許を取るという制度がなく、運転免許試験場で受験するしか道は無かったのだ。

教習車両はHONDAのCB750(RC42)だった。空冷の直列4気筒エンジンで、400とは違い低速トルクが豊富で緻密なエンジンの回り方がとても好みで乗りやすかった。

試験場の車両はというと、HONDAのVFR750K(RC37)は水冷のV型4気筒エンジンで、野性味があるというか低速域が荒々しく、当時は何だか乗りにくかった。

 

・大型二輪免許:排気量400㏄以上

 

その後、社会人となり、HONDAの大型バイク"Big1"ことCB1000SFを購入した。

第29回東京モーターショー(幕張)を見に行った時、ブースで光り輝いていたバイクが目に焼き付いていて、秘かに憧れていた。

HONDAのエンジン、整備性の良さ、耐久性、ショップ数の多さ、安定した部品の供給網、すっかりHONDAバイクの虜になっていた。

 

排気量は、50㏄→250㏄→400㏄→1000㏄と順を追ってステップアップした。

2ストロークエンジンから4ストロークエンジン、単気筒から2気筒、4気筒、3気筒、レプリカからスーパースポーツ、ネイキッドへとキャラクターの異なるバイクに乗り換えていった。

 

おいちゃんの教育により、ライディングの基本が仕上がっていたので、知らぬ間にどんなバイクにも、どんなエンジンにも適応できるようになっていた。

 

時代は移り変わり・・・

 

令和のいまは、18歳でいきなり大型二輪免許の取得が可能になった。

最近の大型バイクは、電子制御の恩恵によりリッター200馬力オーバーが当たり前だが、お金があればいきなり大型バイクも購入できるようになった。

 

昔のおいちゃんのように小言も言われなくなった時代だ。

 

色々と制限されていたものが解禁され、自由に選択できるようになった。

 

その代わり、何かアクシデントが起きたときは「自己責任」という体のいい言葉で片付けられてしまう。

 

人に厳しい時代になったなぁと感じる。

 

免許取り立ての子が大型バイクで事故という痛ましいニュースをよく見かける。

リターンライダーも性能が良すぎるバイク、電子制御の介入のお陰なのだが自分が上手くなった?オレはまだ衰えていない?という錯覚から起こしてしまう悲惨な事故も多くなった。

 

「物事はきちんと手順を踏むこと」

昔の大人たち、年長者たちは、それを身をもって教えてくれた。

お手本も失敗も見せてくれたなぁ。

 

おいちゃんには感謝しています!

おいちゃんに鍛えてもらったお陰で、命を落とすこともなく、いまでも継続して好きなバイクに乗れています。

 

タニモトのおいちゃん、ありがとうね!



旅のはじまりはモーターサイクル。

 

自由への扉をひらこう。