黒田官兵衛や福澤諭吉ゆかりの城下町。
町のあちこちに武家屋敷や古寺が残っています。
①中津城,②福澤諭吉旧居・福澤記念館,③中津市歴史博物館の三館共通観覧券での観光がおすすめです。
■①中津城
天正16年(1588年)築城
黒田孝高(如水)が豊臣秀吉の命令により九州を平定し、中津16万石を拝領して天正16年(1588年)、中津川河口周防灘に臨むこの城を築いた。
城郭面積は23287坪、地形が北より南方に扇状をなしているので、中津城の別名を扇城と云う。本丸石垣、内濠は当時のままで水門より海水が入って潮の満干で濠の水が増減している水域。
享保13年(1728年)藩主奥平昌成、中津城北門鉄砲場山国川に水位を計る測水標を設置、我が国量水標の初めと記録。
日本三水城のひとつ
<日本三水城>
・中津城
・高松城
・今治城
■②福澤諭吉旧居・福澤記念館
・福澤諭吉旧居
享和3年(1803年)築の木造茅葺平屋建で、諭吉が青年期を過ごした家。
・福澤記念館
福澤諭吉の遺品・遺墨・書簡などをはじめ、福澤諭吉関連の資料を展示及び保管。
1階では時系列に福澤諭吉の一生をたどることができる。2階では福澤諭吉の様々な側面をテーマごとに展示された資料を観覧することができる。
福澤諭吉<1834-1901>
近代日本を代表する思想家・教育者、慶應義塾の創設者
福澤諭吉は、天保5年(1835年)に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として生まれた。1歳6ヶ月のとき父と死別し、母子6人で中津に帰郷。貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14歳の頃からは勉学にめざめ、のちには儒学者白石照山の塾で学んだ。
安政元年(1854年)19歳の時に蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で勉学に励んだ。安政5年(1858年)には藩の命令で、江戸の中屋敷の蘭学塾の教師になった。これが慶應義塾のはじまりとなった。
西洋の文学に触れたいと考えた諭吉は、万延元年(1860年)幕府使節の護衛船「咸臨丸」に軍艦奉行の従者として乗り込み渡米。文久2年(1862年)には、幕府使節の一員としてヨーロッパ諸国も歴訪。議会や郵便制度、銀行、病院、学校などを旺盛な好奇心をもって見聞した。その後これらの経験をもとに『西洋事情』を著し、続けて『学問のすすめ』『文明論之概略』などを次々と発表して、世界と隔絶されていた当時の日本人を啓蒙していった。
『西洋事情』1866年-70年刊・全10冊
ヨーロッパやアメリカ滞在中に見聞したことをまとめたもの。西洋諸国の経済の実情や学校教育、病院から電信機、ガス灯にいたるまであらゆる施設や制度を紹介している。この本は、一般国民の西洋に対する認識を深めさせたばかりでなく、徳川慶喜が「大政奉還」を決意するきっかけになったともいわれ、新政府の「五箇条の御誓文」「政体書」などに多大な影響を与えた。
『学問のすすめ』1872年-76年刊・全17編
中津市学校開設に当たり、中津の若者のために書いたものに端を発す。封建的な身分制度を支える儒教思想を批判し、実証的な新しい学問の大切さを説いた。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云へり・・・」の文は、初編の書き出しである。17編で340万部が読まれたといわれている。
アメリカの独立宣言の序文「すべての人間は、生まれながらにして平等である」を意訳して引用した上で、・・・と云われている・・・と伝聞で締められている。
生まれたときは平等である、しかしながら、実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて雲泥の差がついている。
だからこそ、その不平等な差を埋めるために、生まないためには、勉強して自分を磨き続けなければならないと学問の大切さを説いている。
『文明論之概略』1875年刊・全6冊
西洋と日本の文明を歴史的に見つめ直し、自分の歴史観を体系的にあらわしたもの。文明とは人の智徳の進歩であるとし、西洋文明を取り入れることによって、日本の独立が守られると訴えた。西郷隆盛もこの本に影響を受け、鹿児島の私学校の生徒に読むこと強くすすめたという。
『修身要領』1900年発表
門下の高弟数名をして編纂させたもの。全29条からなり「独立自尊」を根本理念として、家族はもとより、社会、国家、そして人類社会の一員としての道徳まで言及している。
■③中津市歴史博物館
黒田官兵衛が築いた九州最古の近世城郭中津城の石垣が鑑賞できるよう、石垣側を総ガラス張りにした博物館。
館の中央の展示室は有料ゾーン。中津の歴史と文化を伝える展示や様々な企画展示がある。無料ゾーンには楽しく体験学習ができるプレイスタジオや、中津城の石垣を分かりやすく解説したシアター、カフェ、ミュージアムショップがある。
旅のはじまりはモーターサイクル。
自由への扉をひらこう。
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