人生で最も影響を受けた人物 福澤諭吉について想う。


大分県の中津市を走行中に、ふと立ち寄ったのが「中津城」だった。

 

 

玖珠町から県道28号を北上し「耶馬渓」を走り抜け、国道212号を走行中に「中津城」の案内標識を見つけた。

 

時間もあることだし「中津城」の外観だけでも眺めてみようかな?

軽い気持ちで「中津城」に向かうことした。

 

しかし、県道108号の途中で「中津城」への案内標識を見失ってしまった。視界の中に「中津城」も見つけることはできなかった。

 

一度は中津の街を通り過ぎ、山国大橋を渡りきり、隣りの吉富町まで来てしまったのだが、何故だか?中津のことが妙に気になってしまった。

 

自分でもよく分からないが、後ろ髪を引かれるようにUターンした。再び山国川を渡り、中津の街へと引き寄せられていった。

 

最後に案内標識を見失った場所まで戻ると、再び案内板を見つけることができた。道なりに進んでいくと、その先に「中津城」はあった。

 

五層のとても立派な天守閣だった。

 

『徳川御連枝 奥平家居城 中津城』

 

お城の中も覗いてみたいな・・・

不思議な誘惑に駆られた。

 

最初は「中津城」だけを見学し、その後、昼食(本場の中津からあげ)に出かけようと思っていたが、受付で入場券を購入するときに"三館 共通観覧券"の文字が目に飛び込んできた。

 

 

・三館 共通観覧券 700円

①中津城

②福澤諭吉旧居と福澤記念館

③中津市歴史博物館

 

入城料は大人お一人様400円なので、+300円で三館も巡れるのはお得だなと思った。

 

突然、頭の中に"中津のからあげは、諭吉のからあげ"というキャッチフレーズが思い浮かんだ。

あぁそうか、諭吉は福澤諭吉のことで、中津って諭吉の出身地だったんだ~と腑に落ちたのを覚えている。

 

観光地に立ち寄ったときは"次はいつ来れるか分からないので、見聞を広めるためにできるだけ多くのことを自分の目で見ておこう"と思っている。

というわけで、三館全てを巡ることに決めた。

「中津城」を見学した後、城下町を抜けて、導かれるように「福澤諭吉旧居と福澤記念館」へとバイクを走らせた。

 

「福澤記念館」の受付で三館 共通観覧券を提示すると"旧居を見てから記念館に入るのがいいよ~"と言われ、まずは旧居の敷地に足を踏み入れた。

 

旧居の第一印象は、拍子抜けするくらい質素だった・・・

 

これまでの福澤諭吉のイメージといえば偉人であり、壱万円札の肖像画の人物であり、慶應義塾大学の創設者。

さぞかし立派な生まれだったのだろうと思い込んでいたので驚きがあった。

 

旧居南側の小さな庭には、幼少期の諭吉の母の優しさが伝わってくるエピソードがあり、とても印象に残った。

 

驚きを隠せないまま、隣の「福澤記念館」に入館した。

 

1階には年表に沿って時系列で福澤諭吉の一生をたどることができた。遺品や遺墨・書簡などの資料が展示されていた。2階には様々な側面からのテーマ毎の展示品が保管されていた。

展示内容や遺品・書簡をしっかり読み込んでいくと、更なる驚きがあった。

 

自分の思い込みには大きな勘違いがあったことに気付かされた・・・

 


福澤諭吉<1834-1901>

近代日本を代表する思想家・教育者、慶應義塾の創設者


福澤諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で生まれた。

13石2人扶持の下級武士 福澤百助の次男でとても裕福とはいえなかった。

否、貧しかったのだ・・・

 

厳しい身分制度のもと、武士の子は武士に、農民の子は農民に、生まれた家で生涯の身分や地位が決まる時代であった。

いわゆる「門閥制度」と呼ばれる社会の仕組みである。武士の間でも身分の差があり、下級武士はいくら職務に精を出しても出世は望めなかった。

 

そして1歳半のときに父を亡くし、母と子6人で中津に帰郷した。

中津に戻るも、幼少期は方言の違いやよそ者扱い、そして「門閥制度」でいじめを受けていた。

いじめを受けながらも、優しい母のもとで貧しくとも信念を持った少年時代を過ごしていた。

 

「門閥制度は親のかたき」という言葉が残されている。

生まれや家柄によって身分が決まり、どんなに努力してもそこから抜け出すことはできなかった。

 

どんなに無能でも生まれや家柄が良ければ大切に扱われる「門閥制度」を彼は嫌っていた。

厳しい身分制度に疑問を感じながら少年時代を過ごしたことが、後年の「門閥制度」と徹底的に闘う背景になったといえるだろう。

 

兄のすすめで14歳から勉学に目覚め、のちには儒学者白石照山の塾で学んだ。14歳といえば現在の中学生くらいだろうか。

 

19歳のときに当時の最先端の洋学が学べる長崎に出向いた。長崎で蘭学(オランダ語)を学んだあとは、20歳のとき大坂の蘭方医(オランダ流の医者)緒方洪庵の適塾で勉学に励んだ。現在の大学生くらいの年頃だろう。

23歳のときに中津藩の命令で、江戸の奥平家中屋敷の蘭学塾の教師になった。この塾が慶應義塾の起源といわれている。

 

蘭学を習得し教師になるも、時代は変わりつつあった。

彼が最初に学んだ洋学が蘭学であったのは、江戸時代において洋学と言えば蘭学が唯一の学問であったからである。

ところが24歳のとき開港場の横浜に行ったとき、オランダ語がもはや過去のものになりつつあること痛感した。そこで彼は、これからの時代はイギリスやアメリカの学問を修めなければならないことを悟り、蘭学を捨てて英学に転向することを決意したのだった。

 

ここに世界の動きを見抜く先見の明があったといえる。時代は今から165年前の1859年、封建的な江戸時代であるから驚きでしかない。

 

そのころ江戸では英語を知る者はいなかったため、彼は英蘭対訳辞書を頼りにコツコツと独学を続けた。まずは英語からオランダ語へ、オランダ語から日本語へ、そして英語から日本語への対訳を進めていった。

記念館には英語の勉強に苦しめられた手紙や書物があり、勉学の苦心がひしひしと伝わってきた。

彼の手記からは、並々ならぬ努力の力強さを受け取った。

 

何という凄まじい努力家なんだろうか・・・それはあまりにも衝撃的だった。

 

従来の蘭学者たちが医学や自然科学、およびその応用技術等の範囲に限られていたのに対して、彼は英語を通して次第に英米の進んだ政治・経済などの知識を得ていった。西洋の社会・人文の諸科学に眼が開かれていったことは非常な大きな収穫があった。

ここにも後年の民主主義者・自由主義者が育まれるチャンスがあったといえる。

 

25歳~27歳のとき、彼はその洋学の力が認められて、幕府の外国方(現在の外務省)に召され、外交文書の翻訳に従事することになった。そして幕府の遣外使節の一行に従い、3度も欧米に行くチャンスを得たことは、彼の一生に最も重要な意味を持つものであったといえる。

 

彼の西洋学の知識は、この3度の欧米見学が基礎となっている。幕府の資金で海外の書物や原書を買い入れてきたことは、学問や書籍が好きだった父ゆずりの感覚であったともいえる。

この原書は、慶應義塾の教師や学生などを通じて、英学の普及にも貢献していった。

 

記念館には、欧米見学のときに持参した手帳が残されていた。

議会や郵便制度、銀行、病院、学校などを旺盛な好奇心をもって見聞した。手帳には直筆で日本語、英語、オランダ語のメモが縦横びっしりと書き記されており、これが31歳のときに刊行した『西洋事情』のもとにもなっている。

 

この手帳からも見聞録をまとめておく熱心さや継続する努力がひしひしと伝わってくる。

 

この『西洋事情』は、世界と隔絶されていた当時の日本人を啓蒙し、一般国民の西洋に対する認識を深めさせたばかりでなく、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を決意するきっかけになったともいわれ、新政府の「五箇条の御誓文」や「政体書」などに多大な影響を与えた。

 

37歳のときに刊行した『学問のすすめ』は、故郷の中津の若者のために書いたものに端を発する。江戸時代の封建的な身分制度・門閥制度を支える儒教思想を批判し、実証的な新しい学問の大切さを説いた。

 

40歳のときに刊行した『文明論之概略』は、薩摩藩の西郷隆盛もこの本に影響を受け、鹿児島の私学校の生徒に読むことを強くすすめたという。

 

30代の半ばから40代の半ばにかけては、彼の活動がもっとも華々しく、その存在が社会的にもっとも反響を生んだ時代となる。明治初年のいわゆる文明開化の風潮は、福澤諭吉によって指導され、代表されたといっても過言ではない。

 

名実ともに新文明の指導者・推進者であったが、40代後半ともなると、第一線の革新家ではなく、むしろ時代の批判者ないし調整者の立場となった。かつては封建的なもの一切を打破するために、その言論が極端にはしることもあったが、その後は著しく調和的になった。それは年齢的にも老熟したことや、社会情勢の変化によることが大きかったといえる。

 

46歳のとき当時の政界を騒がした「明治十四年の政変」と呼ばれる大事件があった。

派閥争いや政見の相違から、主流派の伊藤博文らとは相容れなかったため排斥をくらう一大災厄となったが、これはまた禍を転じて福となすチャンスともなったのである。

 

47歳のとき不偏不党の新聞『時事新報』を創刊した。当時の有力な新聞がほとんど政党の機関紙か、政府の御用新聞化していたのに対し、不偏不党、厳正公平を標榜した。それが世の信用を博するともに、時代の良識を代表したものが多かったから『時事新報』は新聞界に確固たる勢力を築くことに成功した。

 

もともと彼は、理解力が広くかつ速い点、時代感覚が鋭い点、大局を掴む目の正しい点、人物が明るくユーモアが豊かな点、さらにわかりやすい文章で魅力に富む点で、天成無類のジャーナリストであったともいえる。

 

彼の生涯を貫く精神は何であったのだろうか?

 

一言でいえば、封建制を打破して民主化すること!

 

国民の精神革命を行ない、それによって日本を真の独立国にすることにあった。封建社会の根底にあった儒教思想を捨てて、西洋の近代文明を学ぶことが絶対に必要であると信じていたのである。

 

福澤諭吉は生涯、平民をもって終始し、位階も、勲等も、爵位も、学位も、勲章も一切身に付けなかった。

彼はそうした肩書をなによりも嫌い、拒み通したのである。

 

無位無冠の福澤諭吉が国民の脳裏に強く生きているのは、権威に屈従せず、人爵を意に介せず、身をもって「独立自尊」の主義を貫徹し、後世の模範となったからであろう。

中津の街に惹き寄せられたのは、偶然ではなく必然だったかもしれない。

 

福沢諭吉は、人生で最も影響を受けた人物となった。

 


■福澤諭吉

封建・官僚主義と闘った自由思想の啓蒙家で日本の近代思想のパイオニア。

1860年に渡米して以来、再三欧米を行き来し、先進的な思想を吸収。政界の啓蒙をはかりながら、慶應義塾を設立し、教育による日本の近代化に力を注ぎ込んだ。

また、「時事新報」を創刊し、独立自尊と平等主義をとなえ、近代日本のパイオニアというべき思想家となった。

 

<略年表>

 

1835年(天保5年)【0歳】

 1月10日大坂堂島の玉江橋北詰にある中津藩蔵屋敷で生まれる。

1836年(天保7年)【1歳】

 父百助死亡。母子6人藩地中津に帰る。

1854年(安政元年)【19歳】

 兄三之助のすすめで蘭学を学びに長崎へ出る。

1855年(安政2年)【20歳】

 医師で蘭学者の大坂の緒方洪庵の適塾へ入門。

1856年(安政3年)【21歳】

 兄三之助が病死したために中津に帰り福澤家を継ぐ。

1857年(安政4年)【22歳】

 適塾の塾長となる。

1858年(安政5年)【23歳】

 藩命令で江戸へ出府、藩主奥平家の中屋敷に蘭学塾を開く。(慶應義塾の起源)

1859年(安政6年)【24歳】

 横浜見物を契機に英学に転じ、独学でこれを修める。

1860年(万延元年)【25歳】

 咸臨丸で渡米、帰朝後幕府の外国方に雇われる。同年8月に最初の著訳書『増訂華英通語』を刊行。

1862年(文久2年)【27歳】

 遣欧使節団に随行して、ヨーロッパ各国をまわる。(フランス・イギリス・オランダ・プロシア・ロシア・ポルトガル)

1864年(元治元年)【29歳】

 中津に帰り、小幡篤次郎ほか6人の中津藩子弟を伴い帰京。幕府翻訳方となる。

1866年(慶応2年)【31歳】

 欧州諸国を廻り見聞したことをまとめた『西洋事情』初編を刊行。

1867年(慶応3年)【32歳】

 幕府の軍艦受取委員随員として再渡米。

1868年(慶応4年)【33歳】

 時の年号にちなんで塾名を「慶應義塾」と定める。9月改元、明治となる。

1870年(明治3年)【35歳】

 中津に帰り母を伴って帰京。この時、中津で「中津留別の書」を起草。

1871年(明治4年)【36歳】

 中津市学校の開設に尽力。校長に小幡篤次郎を派遣。

1872年(明治5年)【37歳】

 『学問のすすめ』初編を刊行。(明治9年17編で完結)

1875年(明治8年)【40歳】

 三田演説館を開館。『文明論之概略』刊行。

1880年(明治13年)【45歳】

 交詢社設立に尽力する。

1881年(明治14年)【46歳】

 政変が起こり、参議大隈重信失脚。門下生も官界から追放される。

1882年(明治15年)【47歳】

 不偏不党の新聞『時事新報』を創刊する。

1890年(明治23年)【55歳】

 慶應義塾に大学部を設け、文学、理財、法律の三科を置く。

1892年(明治25年)【57歳】

 北里柴三郎を助けて伝染病研究所の設立に尽力する。

1894年(明治27年)【59歳】

 耶馬渓の競秀峰が売却される事を耳にし、これを買収。自然保護の先駆といえる。

1897年(明治30年)【62歳】

 『福翁百話』刊行。

1898年(明治31年)【63歳】

 『福澤全集』全5巻刊行。脳出血症を発す。

1899年(明治32年)【64歳】

 『福翁自伝』『女大学論評・新女大学』刊行。

1900年(明治33年)【65歳】

 門下の高弟数名をして編纂させた「修身要領」を発表。

1901年(明治34年)【66歳】

 1月25日脳出血症再発。2月3日永眠。


旅のはじまりはモーターサイクル。

 

自由への扉をひらこう。